2013年1月8日火曜日

観光ガイド本には載っていない京都「泉涌寺」参拝の楽しみ方(京都・洛南)

京都市東山区の総本山泉涌寺と塔頭寺院を詣でる「泉涌寺七福神巡り」をしてきました。
「世界遺産をバスであちこち巡るだけの京都観光に飽きた、という人に薦めよう」
そう思い、観光ガイドに頼らない泉涌寺観光の仕方を紹介しようと記事を書いています。

エキナカの広告を見てふらりと訪ねてみた京都府「泉涌寺」。
観光ガイドでは数ある寺社のうちの一つ程度の取り扱いしかしていない寺社のため、
当初はあまり関心がなかったのですが、訪ねてみると多様に富んでいて面白い寺社でした。



結論を先取りして、泉涌寺観光の魅力をまとめると、下記の3点になると思っています。
1.泉涌寺の奥深い歴史や格式の高さ (皇室の菩提寺)
2.巡りやすく多様性に富む別院・塔頭の充実 (1~2時間程度で泉涌寺七福神巡り可)
3.足を伸ばせば周辺の寺社仏閣の充実(東福寺・智積院・三十三間堂…etc)

それでは泉涌寺の魅力について、
(1)泉涌寺の歴史要約、(2)泉涌寺の別院・塔頭(七福神巡り)
といった順番でまとめてみたいと思います。

「東福寺駅」周辺地図

市バス(202、207、208)で泉涌寺道下車、徒歩7分(京都・東寺・祇園四条駅などから)
東福寺駅(奈良線、京阪電車)から徒歩10分

なお、「御朱印集め」については、こちらの記事も参考にしてみてください。
■過去記事: 移動と日常を面白くする「御朱印集め」

1.泉涌寺と境内施設 ~泉涌寺 真言宗泉涌寺総本山~



天長年間(824~834)に弘法大師がこの地に法輪寺という庵を結んだのが始まりとされ、
仙遊寺に改称されたあと、建保6年(1216)に月輪大師が宋の方式による大伽藍を営み、
寺の一角から清水が湧き出たことから、泉涌寺という名前になった。

皇室との関係が深く、「御寺(みてら)」と呼ばれて親しまれている。
四条天皇が仁治3年(1242)に月輪陵に葬られて以来、
歴代天皇の小陵がこの地に営まれ、皇室の御香華院(菩提所)として厚い信仰を集める。
そのため皇族が京都に来られた折りには、歴代天皇陵ご参拝のため必ず泉涌寺に立ち寄る。


★大門-慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。
★仏殿-寛文六年(1668年)徳川家綱が再建した唐様建築の代表格。宋風の「仏殿」の呼称で呼ばれる。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様。本尊は釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像であり、過去・現在・未来を祈る珍しい安置の形をとる。宋代の仏教の影響を受けている。天井の竜の図と本尊背後の白衣観音図は狩野探幽の筆。
■霊明殿-天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の尊牌を安置。
■舎利殿-もと御所にあった御殿を2階建てに改装・移築した物。謡曲『舎利』は、この舎利殿を舞台に、太平記の説話に基づいた物。
■御座所-安政年間(江戸時代末期)に建立され、明治天皇が使用した旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋。なお御座所は両陛下はじめ皇族方の御陵御参詣の際の御休所として現在も使われる。庭園は紅葉の名所。


■海会堂-御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。宮中にあり「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の神仏分離令発布を機に泉涌寺に移築したもの。かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。
★楊貴妃観音堂-中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(楊貴妃観音)を安置する。
■心照殿-楊貴妃観音堂に接して建つ宝物館。
■浴室-切妻式の寛文期再興の建物。
■鎮守社-稲荷大明神が祀られている
■泉涌水屋形-寺名の由来となった名泉が涌き出ている。屋形は仏殿と同じ寛文期の建物。
★月輪陵-四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれる。
★開山堂-歴代長老の墓所。その中央小堂内に開山俊の無縫塔が祀られる。鎌倉時代最古のもので、北に並ぶ2基や各時代の無縫塔40余基が左右に整然と並ぶ聖域。


(※ ★は重要文化財がある場所)

2.周辺の別院・塔頭 ~泉涌寺七福神~



泉山の一山だけに密集した多様な寺社は、私の満足度を上げた大きな理由の一つでした。
1~2時間程度で、一山を巡り「七福神巡り」を達成できた所に高い満足度があります。

この七福神巡りは泉山七福神とも呼ばれる正式名称「京都泉涌寺七福神」。
下記の泉涌寺山内の塔頭寺院で構成されています。
七福神なのに9柱あるのは、中国で9が縁起のいい数とされていることからだそうですね。

即成院福禄寿京都市東山区今熊野泉山
戒光寺弁財天京都市東山区今熊野泉山
新善光寺愛染明王京都市東山区今熊野泉山
今熊野観音寺恵比寿京都市東山区今熊野泉山
来迎院布袋尊京都市東山区今熊野泉山
雲龍院大黒天京都市東山区今熊野泉山
泉湧寺楊貴妃観音京都市東山区今熊野泉山
悲田院毘沙門天京都市東山区今熊野泉山
法音院寿老人京都市東山区今熊野泉山


泉涌寺七福神の巡り方(所要時間:1~2時間程度)


■ 第一番 福禄寿 即成院
関白藤原頼通の第三子橘俊綱の創立。
平安時代に作られた「本尊阿弥陀如来・二十五菩薩」は重要文化財指定。
境内に源平の「屋島の戦い」で、平家が立てた扇の的を射落とした那須与一の墓がある。


二十五菩薩正面.jpg


私が訪問したときは、「木造阿弥陀如来と二十五菩薩像26躯」が特別公開されていた。
仏さまの多くが楽器を持っていることから「仏さまのオーケストラ」と呼ばれるもの。


Googleと提携し、現世極楽浄土とよばれる綺羅びやかな本堂をネット公開している。
◯Googleストリートビュー「本堂内部@阿弥陀様視点」: http://goo.gl/4Euk6


「面白くなければありがたくない。ありがたくなければお寺でない」と
住職さんに特徴的な取り組みの理由を尋ねた際に、そう話されていたのが印象的だった。


■ 第二番 弁財天 戒光寺
鎌倉時代曇照律師の創立。
本尊の釈迦如来立像は総丈三丈三尺、運慶・湛慶の合作で重要文化財。
後水尾天皇の守護仏で、「身代わり丈六さん」と呼ばれ、病気の御祈祷で有名。
また、新撰組から脱退し、七条油小路で暗殺された伊東甲子太郎以下4名の墓がある。
また開山曇照津師像は鎌倉期の祖師像も重要文化財。




色々な飾りがついていることもあり測りにくい仏像。
丈六について尋ねた際に教えて頂いた仏様の高さの測り方は地面から眉間までだそう。
頭の天辺までの高さだと、この御本尊様の高さは5m(丈八)を越えているそうだ。


■ 第三番 恵比須神 今熊野観音寺
開基は弘法大師で、弘法大師の作といわれる本尊は十一面観世音菩薩。 
大同年間(806年~810年)空海が庵を結んだのに始まるとされ、藤原緒嗣が伽藍を造営。
永暦年間(1331年~1334年)新熊野神社が建てられるとその本地仏を祀る寺とされた。


本尊の十一面観音像のほか、脇士不動明王、毘沙門天像とともに篤い信仰をあつめ、
広い境内に参詣者は絶えることのない賑わいをみせている。


「枕草子」の作者として知られる清少納言は、観音寺の近くで育ったと言われる。

かぐわしき平安文学の発祥の地の一つとして想いを馳せた。


■第四番 布袋尊 来迎院
弘法大師が唐から持ち帰った荒神像を安置し創立したとされる。
荒神堂本尊「三宝大荒神・護法身」は重文、境内には大師が独鈷で掘られた独鈷水が湧出。
来迎院の荒神像は胞衣荒神ともいわれ皇后宮安産の勅願所として厚い信仰を集める。

創立から数百年後の応仁の乱の兵火により荒廃したものの、織田信長の援助により再興、
前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済基盤を整え、復興を果たす。

境内一角に赤穂義士・大石義雄建立の茶室「含翠軒」がある。
大石は、よくここで茶会と称して赤穂浪人たちと密談をかわしていたとされている。
殊に晩秋の紅葉が素晴らしい。

 

■第五番 大黒天 雲龍院
北朝後光厳天皇の創建、霊明殿には北朝歴代の御尊牌を奉祀、本尊は薬師三尊(重文)。
後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展した。

勅願の寺院で皇室との縁の深さから、塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら、
「別格本山」という高い寺格を持つ。
 

■第六番 毘沙門天 悲田院
聖徳太子の開かれた悲田、施薬の両院に源を発し、本尊は阿弥陀如来。
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られた。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、また高槻藩主永井家の菩提寺。

■第七番 寿老人 法音寺
後醍醐天皇の嘉暦年間の創立、本尊は不空絹索観世音菩薩。
本堂は英照皇太后御大祭の御須屋。

館山の城主本多家の菩提寺で書院は伏見桃山城の遺構の一部、境内に本多家の墓がある。

■番外  愛染明王 新善光寺
■番外  楊貴妃観音 総本山泉涌寺

おわりに


泉涌寺だけでは物足りない方は、足を伸ばせば
東福寺、三十三間堂、智積院…といった他の有名な寺社仏閣が側に多く在ります。

ガイドブックに頼って有名所を巡回するだけでなく、
小さな別院の一つ一つの歴史由来や造りなどにも視点を向けて、
古に心を向けてみると京都観光がさらに面白くなるのではないかと思いました。
ちなみに泉涌寺の御朱印は、仏殿で頂ける達筆な筆致と「菊の御紋」の美しい御朱印です。

JR東海 そうだ、京都行こう 2009年 初秋 泉涌寺編

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