2013年1月6日日曜日

「クビライの経営学」から学ぶ3つの教訓

 クビライの大元ウルス経営学


かつて、草原の軍事力、中華の経済力、ムスリムの商業力を再編成して、
遊牧と農耕の世界を融合する新たな国家を創りだした指導者がいた。
その時代、文明圏中華はかつてない規模まで拡大し、
文化の多様性と国際貿易の繁栄を享受していた。

その空前絶後の大帝国の名前は「大元ウルス」。
第五代皇帝クビライ、日本でフビライ・ハーンと呼ばれる皇帝の治世である。

クビライの構想は、草原の軍事力・中華の経済力・ムスリムの商業力を結合。
政治的分権体制を容認しつつ、ユーラシア全土の通商・流通活動を整備・活発化させ、
それによって大元ウルスの覇権を維持するというものであった。

当時と同じ自由主義・実力主義の傾向が重視される近年の日本。
大元ウルスの経営から重要な知見を得るべく、この記事ではクビライについて整理したい。

大元ウルス/クビライのキーワード
「多様性」「実力主義」「権限移譲」「意思決定」「税制緩和」「地方分権」

映画「蒼き狼・地果て海尽きるまで」よりモンゴル騎馬隊

多様性と実力主義


(1)大都建設と人材の多様性
クビライは1271年に国号を大元ウルスと改め、翌年には大都を首都とした。
 遠く燕の時代から二千年にわたって歴代王朝、地方政権の都の所在地だった旧都に見切りをつけ、現在の故宮を中心とした位置に新しい都「大都」建設に踏みきった。この大都とは今の北京の前身である。
しかし、当時の地は今の北京の様相は異なる。この地は何もない未開の地。
そこに、四半世紀の歳月と膨大な資金・労働力を投入し、絢爛な都が建設されたのである。

この困難な建設には、クビライの実力主義の思想が見て取れる。
漢族の劉秉忠、段韃、蒙古族のエスグカ、女真族の高◯、色目人のエケデル、
国境を越えてホパール人のアニゴといった有能な人材が建設に起用されたのである。

(2)科挙廃止と実力主義
科挙が事実上停止され士大夫・読書人の不満がつのったとされるが、
実務能力に応じた柔軟な人材登用が行われており、定説とは異なる。
大元ウルスは、実に人材選抜に敏感であったし、熱心であった。
その治下では、政権との縁故か実力かがあれば、人種に限らず誰でも登用していた。

「科挙の停止」は、以前の中華王朝で人間選抜の第一基準とされていた
古典や文学の教養が万能とはされなくなってしまったことにある。
モンゴルでは、現実に役だつ能力、実務に携わり処理する実行力こそが第一基準とされ、
従来の意味をなさなくなった「科挙」にこだわらず、実力主義を貫いた。

現実に「科挙の停止」された時期にも、かなりの中国人官僚がモンゴル政権に仕えていた。高級官僚もいたし、宰相・大臣クラスまで登った者もいる。
大元ウルスは中華文化の教養人であれば、「三顧の礼」をつくして厚遇していた。
旧南宋の学者・文化人でも、優れた人物はどんどん招聘していたのである。
彼らの殆どは科挙ではなく、いわば「推薦制」で登用されたのであった。 

(3)「モンゴル人至上主義」の誤解
通説のモンゴル人至上主義も誤解がある。
モンゴルは、人種・言語・宗教・文化の違いに、殆どこだわらなかった。
階級の頂点である「モンゴル」というのは、草創以来の牧民貴族の子孫を中核に、
モンゴル政権に参画したさまざまな人種からなる為政者達を指すのである。
つまり、家柄や出身が立派でなくても、人種や言葉や顔立ちが異なっても、
運と能力と実績さえあれば、最高位の「モンゴル」となることもありえるのである。


 権限移譲と意思決定


クビライは側近やブレインとの対論や協議を盛んに行った。
そして綿密に分析・検討した後に決定を下した。側近やブレインへの信頼は絶大であった。
あることを誰かに任せると決めれば、ことの成否が明確になるまでは任せきったのである。

たとえばイスラーム世界でのモンゴルの軍事活動のムスリム商人の協力がある。
作戦計画の立案、敵情調査、降伏勧告、外交交渉、軍事物資の調達や輸送などを、
この地域の事情に詳しいムスリム商人が担当し、また征服地の行政や財務を担った。

ホラズムの大商人マフムード・ヤラワチとその子マスウード・ベクというムスリム商人や、
仏教徒のウイグル商業集団とともに様々な特権を与え、政権の財務などを彼らに委ねた。

財務長官アフマドはシル川中流域出身のムスリム商人である。
また雲南開発では、ムハンマドにつながる家系の商人サイイド・アジャッルが勤め、
南宋征服戦の補給は、大商人マフムード・ヤラワチの一族のアリー・ベクが担当。
また南宋征服戦は、総司令官として38歳のペルシア出身の貴族バヤンが勤めた。
側近として帰国後「東方見聞録」を記したベニス出身のマルコ・ポーロも重用されていた。

このように、外交・軍事・行政・徴税・財務・兵站・輸送……
どんどん新しいメンバーを付け加え、さまざまなブレインを活用していった。
全ての意見に耳を傾け、取捨選択し、人を見つけ、人を生かし、しかるべき所に配置。
任せきっているが、意思決定し、大きな組織の力とするのは皇帝であるクビライであった。

また一旦必要とあれば、クビライは、ただちに陣頭にたった。
73歳で反乱軍を親征・鎮圧したのは、その一例であり、果断で英邁な人物であった。

 税制緩和と地方分権


ムスリム経済官僚を中心に推進された大元ウルスの財政運営と経済政策は、
極端に重商主義であった。

クビライと経済官僚は、中間の経由地における通過税を撤廃した。
通過税があると長距離を動く大型の商業や商人が育たないためである。
それまでは、商人が要所要所を通るたびに通過税を取られていた。

撤廃の結果、これで大いに楽になった大商人達はモンゴルの武力と交通網を使い、
中国本土のみならずユーラシアの各地へどんどん出かけていくことになる。
また通過税撤廃の補填として、農業生産物は、地方財政に振り当てられた。

この自由貿易志向により、ムスリム商人が積極的に協力し、通商団の名のもと、
隊商をくんで敵地に赴き、内情調査・撹乱工作・調略活動を繰り広げたと言われている。
都市や国家・政権に対する降伏勧告や交渉調停の使節にも、大抵ムスリムが加わっていた。
このように情報戦・補給戦のどちらにも、ムスリム勢力が大きな割合で関わっていた。

また都市の港湾機能に着目し大都に港湾を建設、
陸路のシルクロードと海路を繋げ、貿易を活性化させた。
これにより中国・インド・中東をつなぐ「海のシルクロード」が開かれ、
広域な領土による地中海を越えてヨーロッパに至るまでの貿易路が開かれた。

この時期、140カ国との交易があり、帝国文化は多様性に満ち、一層繁栄することとなる。
クビライ帝国は、拠点支配と物流・通商のコントロールを最大の特徴とする。
物資を集散し、それに課税して財源とすることで大いなる富を集めたのである。

 まとめ


クビライの経営思想をとりとめもなく無理やりまとめてみた。

■ 偏見なく実力・能力に基いて人を選抜していく。
■ 分析・検討を丹念に行い、以後は危機的な状況以外は専門家に権限移譲し任せきる。
■ 占領と搾取ではなく、利を相手にも与えることで、心を掴み、協力者を増やしていく。

さいごに結びにかえて、フビライの遺言を記す。
「帝国を治めるためには人々を力づくで従わせようとしてはいけない。
何よりも大切なこと、それは人々の心をつかむことである」 

※なお、この記事は、学術的な考察をしたものではなく情報や噂をまとめただけなので、利用の際は出典をご確認ください。

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